トニー・シェイとの思い出
第5回:父、リチャード・シェイ氏との出会い(2011年1月)
12年にわたるトニーとの交流の中で、ひとつのハイライトはトニーのお父さん、リチャード・シェイ氏と会う機会が与えられたことだった。
2011年1月5日、私はザッポスの本社にいた。その時、リチャードがたまたまオフィスに居合わせてぜひ話をしたいといわれたのだ。当時、彼はザッポスの香港リエゾン・オフィスを切り盛りしていた。だからその日、彼がラスベガスのオフィスにいたことはまったくの偶然でありとてもラッキーなことだった。お父さんの口からトニーについて話を聞けるなんてまたとないチャンスだった。
リチャードは彼が翻訳したというトニーの『Delivering Happiness(邦題『ザッポス伝説』)』の中国語版を携えてやってきた。ただし、中国語版はただの「翻訳」ではなく、父親であるリチャードの視点からの逸話も含まれているという話だった。なるほど、ページをめくってみると、トニーの子供時代の写真が出てきた。これは英語の原書にはないものだ。彼にとってトニーが自慢の息子であることは一目瞭然だった。
(トニー・シェイ幼少期の写真(「Delivering Happiness」(中国語版)より)
「中国人の親というものは、サクセス・ストーリーを聞くときに、『親はどんな育て方をしたのか』を知りたがるものです。ですから、読者層を広げるために、親としての私の視点も加えて中国語版を作りました」
と聞いて、日本人もそうだな、やはり「アジアの親(Asian parents)」には共通点があるのだな、と思って親しみがもてた。
リチャードは私とだいたい同じ時期にアメリカにわたり、もともとエンジニアであるという点も私と経歴が似ている。イリノイ大学で博士号を取得し、カリフォルニア州立大学バークレー校でMBAを取得したというインテリである。とてもポジティブで、話好きで、気さくな人ですっかり意気投合してしまった。
リチャードとのインタビューで特に印象に残っていることがひとつある。それ以前に、トニーに「アジア系アメリカ人」としての自分の生い立ちや文化的背景が、彼の経営哲学に何らかの影響を及ぼしたと思うか、ときいたことがあった。その答えはきっぱりと「NO」だった。しかし、親の視点からどう思うか、とリチャードに聞いてみたのだ。すると、リチャードは満面の笑みを浮かべてこう言った。
(リチャード・シェイ氏/写真右と石塚しのぶ/写真左)
「ザッポスには『十のコア・バリュー』があるが、あれは私たちがトニーに教えた価値観です。アジア人家庭がごくあたりまえに大切にしている価値観ですよね」
トニーが聞いたらきっと顔をしかめただろうと思うが、そう語るリチャードの誇らしげな様子を私はとても微笑ましく思った。
インタビューが行われたのはトニーが37の誕生日を迎えた直後。今からちょうど十年前のことだ。私はリチャードにこんな質問をしている。
「父親として、これからのトニーの人生に望むことは?」
「トニーの人生だから、彼の好きに生きたらいい。でも、どんな親でも、子供に願うことはただひとつ。ただ、『幸せであってくれればいい』と、そう思っています」
これを書くにあたりインタビューの録音を聞きなおしたが、リチャードのその言葉を聞いて、なんだか胸がいっぱいになった。
ところで、その年(2011年)、「トニーが日本へ旅行を予定しているらしい」と教えてくれたのはリチャードだった。「その際に、何か日本でイベントを企画できるかトニーと話してみたらいい」と私に促してくれた。2011年11月に東京で開催した「ザッポス社CEOトニー・シェイ来日特別チャリティー講演」の種が撒かれたのはこの時だった。
(次回に続く)
記事提供:ダイナ・サーチ、インク代表 石塚しのぶ
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